声を愉しむ
今日、たくさんのアニメが放送され、それにつれてたくさんの声優が綺羅星のごとく産み出されている。だが、人間の一個人の認識力というのは案外狭いもので、その結果として個人の声優としての個性が認識されにくい事態が起きつつある。これは勿論声優一個人のせいではないし、(敢えていってしまえば私達視聴者側の責任だが)声優だけではなく今の若い世代全体に対する評価でもやたらと無個性を主張される場面が多くなってきた。
それを踏まえても違いを見いだしにくくなっているのは事実だと思っている。
この際はっきり言ってしまうが、
「最近の声優が無個性だ」
というネット内の一連の流れは、個人的にうんざりしている。だが、うんざりしているという思いを同じコミュニティー内で言っても同意が得られにくく、黙殺されてしまうのは目に見えているしそれに対する恐ろしい程の反論が起きて
挙げ句の果ては、“無個性である今の若い声優を評価するのはおかしい“といった批判まで出てくる始末。この流れを自分はおかしいと思ったが皆さんはどうだろうか?
だから自分が勝手に声優の個性をどのようにすれば分かりやすく例えられるをずっと考えてきた。その結果として得た一つとしては、
声優の声をお酒のテイスティングに例える
という方法だ。
ここで大切なのは、別にお酒に例える事が重要なのではない、ということだ。いわば、声優一人一人の個性を自分の言葉で表現するという点だ。
分かりやすく言えば、平安時代の和歌のように、季節の風流さを言葉で表現することに近いかもしれない。
ではどうしてそのようなことをわざわざする必要があるのか。
それは、個人の考えが確立できるから
だと個人的に考えている。今、私達の周りには情報を分かりやすくまとめて提供してくれるサイトが山ほどある。だが、そこに多様な意見が飛び交う場所というのは数に反して驚くほど少ない。
自分はその事を嘆いていたが、最近考え方が変わってきた。
はっきり言って、それは当たり前だということに。
今のインターネットのまとめサイトは使う人自身が選んで使っているから、自然と意見が似たり寄ったりになることが多くなる。
数十年前にはあり得ないことだが、今はそれがスタンダードになっていることは認識しておいて損はない筈だ。
無個性だ無個性だとしきりに喧伝するサイトがあるのは、心のなかでそう思う人間に求められた結果の産物であり、それを一方的に批判するのも違うと言う考え方になってきたのだ。
(それに、どうやらネット上において、今の若い人たち全体に対する軽蔑の表現として最も用いられている言葉こそ無個性という言葉のようだ)
だから、上に書いた声優に対する見方も、人によっては批判や嘲笑の対象になるのかもしれない。あくまでも筆者自身の見方なので、それを無暗に他人に進めるつもりはない。
ただ、知ろうとしない、理解しようとしない内からたまたま受身で得た情報に自らの思考を挟まないまま流され、
『○○は無個性だ』
『△△はつまらない人間だ』
『××はいる意味がない』
といつの間にか、露悪的な空気の中の朱色に染まるのは
その人にとってのオタクという存在意義を危うくすると思う。
どうして、オタクという不名誉な侮蔑語を内心穏やかならずも甘んじて来ていたのを考えてほしい。
何故ならそこには純粋な自らが信じるものに対する
【好きだ】
という思いがあったからこそだ。
好きであること自体に格差は存在しない。
作ってはいけない。